A Mesmerizing Site to See: The One World Observatory
One of the most mesmerizing sites of New York City is, no doubt, the World Trade Center complex in Downtown Manhattan. But it wasn’t...
Em Torno da Praça (‘Round the Square in Portuguese)
Esticando-se pela Broadway e Sétima Avenida da Rua West 42 até a Rua West 47, essa meca tanto para seus residentes quanto para aparentemente...
グランドセントラル駅の歴史 (In Japanese)
目を見張る建築美術を誇り、完璧に装飾されたエントランス、その上に聳え立
つは圧巻の彫刻で、絶え間なく訪れる観光客を出迎えてくれる。マンハッタン42丁
目パークアベニューに位置するグランドセントラル(昨年はちょうど創立100年目
の記念すべき年でもあった)は、アメリカで観光客に最も人気のあるスポットであ
この象徴的建築物の着工は今から100年以上前の1903年に遡る。グランドセン
トラルが開通したのは1913年、2月の事である。メトロノース鉄道とローカル地下
鉄線へのアクセスの良さで、現在同様、世界で最も便宜性の高い交通のハブとして
知られる。近辺にはグランドハイアットホテル(正式にはグランドコモンドアー)だけ
でなく、世界的に有名なクライスラービルが混在する中でも、グランドセントラル
は、この地の誇り高き象徴的建築物である。芸術好きの方ならばこんな事も思い
起されるのではないだろうか。本建築物内で、1922年から1958年まで「グランドセ
ントラルアートギャラリー」が存在し、ギャラリー開催発起者が展示会場を探して
いた際決め手となったのは、はやり、このマンハッタンの中心という利便性からで
一方でつい近年迄、長い間、別類のアートで埋め尽くされていた歴史も忘れる事
は出来ない。ビルボードアート、つまり広告アートである。大規模な復興作業が行
われた際、1994年にそれらの広告は撤去された(不動産王のドナルド・トランプが1970年
代初頭に復興の為、資金援助を行い、近年最も記憶に新しいビルの外装工事も含
めたプロジェクトは、2007年に終了した)。
グランドセントラルは外装、内装問わず、いつもその美しさに我々は息を飲み、
胸打たれる。メインドアから上を見上げると、中央のマーキュリーにミネルヴァとヘ
ラクレスが配された彫刻が見える。フランス人彫刻家のジュール=フェリクス・ク
ータンによるデザインで、1914年に初めて御披露目された。彫刻の下には時計も
一歩足を踏み入れると、かなりの広さを誇るメインコンコースが広がる。見上げ
れば、星座が見える。星々が散りばめられた、あの有名な夜空。眩暈を起こさせ
る125フィート先の天井に広がる夜空。それに加えて、広い階段の踊り場に、い
メインコンコース下にはフードコートもあり、このビル内で最も古い歴史を持つ、
オイスターバーはじめ、かなりのレストランが存在する。ここには、必ず何かある。
特定の人をターゲットにした何かではなく、全ての人に向けた何かがある。また場
所を変えれば、観光客から通勤者まで幅広い人が利用するであろう、デリカテッセ
ンからベーカリーショップ、新しいお店からマーケットに至るまで、あらゆる種類の
店が立ち並んでいる。ニューヨークトランジットミュージックの別館まであるのだから、
ピーク時の1947年は、6500万人もの人々が行き交った。ビジネスはい
くらか先細りしているが、高速道路の建設と海外旅行の人気の上昇のおかげで、
グランドセントラルは今なお世界で最も活気ある交通機関の中心に位置づけられ
グランドセントラルは、映画やテレビの中でも、よく目にする光景である。美
しくて、ロマンティックで 、いわばニューヨークの代名詞である。1949年には創
設者のコーネリアス・ヴァンダービルトと共に北アメリカ鉄道殿堂入りを果たし、
1970年にはニューヨークのランドマークとして公式発表された。
もしも、何か余暇の楽しみにと迷われている方がいらっしゃれば、グランド
セントラル内で2月23日迄開催のニューヨークトランジットミュージックでの、第
12回ホリデートレインショー、もしくわ3月3日迄開催のグレートジャパンアースク
エーク写真展示会に出かけてみては如何でしょうか?(2014年開催の為既に終了
気をつけて頂きたい事があるのも事実です。人の多さゆえ、特にラッシュアワーの間
は、先を急ぐ人と、或はただ訳もなく歩く人と、また観光者と、時々押し合い
圧し合いになるかも知れません。それでも心配はいらないでしょう。グランドセント
ラルには他にも見ておかなければいけないもの、そして、やるべきことが沢山ありま
すから、出掛けてみるべきですよ。良いひと時となる事を願っております。
Original article written by Stuart R. Brynien, New York
Translated to Japanese by Hiroya Matsumoto, New York
Something for everyone: a brief look at GRAND CENTRAL TERMINAL
Boasting an impressive array of architectural flourishes, and greeting a steady stream of visitors with the magnificent statuary above its ornately-designed entranceway, Grand Central Terminal at Park...
タイムズスクエア街 (in Japanese)
FRENETIC
日本語に訳すと「超熱狂した―」といったところだろうか。
タイムズスクエアほどこの言葉に相応しい街は他にはないだろう。
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ブロードウェイと7番通りに挟まれた42丁目から47丁目に広がるタイムズスクエア。
唯一無二のこの街は、何千何億ともいわれる観光者だけではなく、地元ニューヨーカーにとっても特別な地として息づいている。バイキング料理店にファーストフード店、映画館にギフトショップと、とにかくいつも私達の心をくすぐるビジネスが軒を連ねる。ひと時も休むことのないこの街は、まさしく「眠らない街」である。
かつてこの界隈はロングエーカースクエアと呼ばれ、セオドアルーズベルトが大統領であった1904年に現在のタイムズスクエアと名称を変えて以降も、一向、その魅力は衰えることがない。
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1904年に、当時のオーナーであるアドルフ・オークスによりニューヨークタイムズ社は42丁目に新建設の高層ビル(現在のワンタイムズスクエア)に移転し、彼は市長と 市政にロングエーカースクエアをタイムズスクエアへの名称変更、更には当時のタイムズスクエアを形作る、いや今日のタイムズスクエアの基礎さえなす地下鉄建設の要請まで行った。
オークスが1913年にタイムズ本社を移転させたことにより、タイムズビルは現在のワンタイムズスクエアとして知られるまでの数年の間アライドケミカルビル とも呼ばれた時期もある。
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この街の成長は著しく、人々には、無くてはならない場所になっていく。世界一のこのエンターテイメントの地へアーヴィング・バーリン、フレッドアステア、それにチャーリーチャップリンといった時代の寵児が関心を持ち始めた頃、タイムズスクエアはマンハッタンで最も魅力あふれる街として、こんなニックネームまでついた。「テンダーロイン」。
テンダーロインと言えば、筆者はタッドステーキハウスで過ごした時間を今でも忘れる事が出来ない。
ゴムバンド箱の大きさくらい柔らかいステーキを頂いたのだが、たったの2ドル49セントで済んでしまったのには大変驚いてしまった。
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世界大恐慌の間、グレートホワイトウェー(ブロードウェイの別名称)もまたギャンブルと売春が蔓延することで荒廃していった。
露骨なまでに危険な地区だとさえ考えられた時期もある。ゴゴーバーに、ポルノショップ、ピープショーに、アダルトシアター(筆者もメトロポール(ジェントルマンクラブの店名)で窓越しに好色なこの覗き見にトライしようとまさにこの国でしたこともあるが、あまりに若すぎて望みは叶わなかった。。)といったそれらの蔓延と共にこの街もまた荒廃し続けた。
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80年代から90年代、エド・コッチ、デイビット・ディキンズ、ルドルフ・ジュリアーニ、これら3人の市長の手によってそれまでタイムズスクエアが一掃されると、再びタイムズスクエアは上昇の気流に乗り始める。ピープショーは大抵人目につかなかったし、スクイジーマン(断りなしに、適当にフロントガラスを拭いた後に、支払いを要求した人たち)は、どこか別の場所へ移って行った。 そして この街は別の、本来の仕事を担っていく。
2009年にはマイケル・ブルームバーグ市長によって42丁目から47丁目に至るブロードウェイでは交通が封鎖されたことで、タイムズスクエアはより歩行者にとっては親しみを思える場所にもなった。
実は、ビルのオーナー達は、「広告を豪華に飾り付ける事で、道行く人々の関心を捉えられるように!」と求められさえする。例えばそれは、驚く程手の込んだ作りであったり、あるいは巨大スクリーンといったもので、タイムズスクエアがラスベガスの煌めくデパートに勝るとも劣らない一つの要因と言える。
全ての始まりは1904年、46丁目のブロードウェイで、銀行横に置かれた電光掲示板が全ての始まりだったのかもしれない。
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大晦日言うまでもなくこの街の一大イベントである。
少し過去に遡ってお話すると、1904年から1906年までは花火ショーがタイムズビルの上で行われていた。しかし、あまりに危険だと言う市の判断で、1907年12月31日、年が明けるその12時直前に初めてのタイムズスクエアボール(ウォーターフォードクリスタル)が落とされた。
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電力規制の為、第二次世界大戦中は、タイムズスクエアボールの代わりに一分間の黙祷とレコードされた教会の鐘の音が捧げられることになる。
最近では、エネルギー効率の高いLEDボールが、バレンタインデーやハローウィーンといった他のイベントでも年間を通じて使われるようになってきている。
おおよそ100万人程が飲み騒ぐのが通例だが、1999年から2000年では、約2倍の人々が訪れた。これは1945年8月15日、第二次世界大戦が終わりを迎えたあの日以降、このタイムズスクエアに集った人の数としては過去最多であった。
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世界の交差点、そして、まさに大きなリンゴの芯ともいえるタイムズスクエア。
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この辺りで筆をおきます。
旅行者の方にとって、あるいは留学生の方々、その他多くの方にとって、少しでも、この記事が、私の知識がお役に立てれば幸いです。
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CITY SITE translated by Hiroya Matsumoto